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Hiromi


 いきなり、すいません。第九話を三度書こうとして、その度に体調を崩し、どうしても書けなくなりました。

 第九話は未完のままに、第十話に突入します。

 もうじき、東京にも桜の花が咲きそうです。今年の二月は精神的にとてもハイで、体調的には最悪でした。どうにか普通の体調に戻り、わりとまともに生活しています。

 で、森田童子ですが、みなさん、知ってますか?

 七十年代を駆け抜けて、八十年代の到来とともに潔く去っていった伝説の「シンガーソング・ライター」です。近いところでは、1993年、野島伸司さんの大ヒットしたTVドラマ「高校教師」の主題歌として、彼女の「ぼくたちの失敗」が、小さな話題になりました。

 彼女は僕が16歳の時に世間的にデビューして、24歳のときに去っていきました。僕より、たぶん十歳くらい年上のはずです。カーリー・ヘアにサングラスというスタイルで、当時、フォークソングの旗手として、絶頂期にあった井上陽水さんと同様に、決してサングラスを外さない人でした。

 ただ違うのは、陽水さんはその後、サングラスを外し、90年代後半にJ-POPの隆盛に合わせて、うたかたの世界に一時的にカムバックしましたが、彼女は決して戻って来なかったということです。森田童子は、ライブ・ハウスを拠点に活動を続け、当時、最盛期を経て、その華やかな成功と同時に衰退の始まりを示していた小劇場運動(寺山修司・唐十郎さんたちですね)に微妙に連動しながら、あくまで自分を貫き通し、去っていきました。
  僕らの原体験は(僕とSuper Tacという意味ですが)、そして、良くも悪くも、その後の人生の進路を決めた作品は、小劇場で見た「つかこうへい」さんの「ストリッパー物語」です。

 つかさんは、当時、寺山さんや唐さんと同じ土俵で勝負しながら、小劇場運動とは、微妙に異なる世界を構築していた別役実さんの影響を強く受け、それをさらに反転して、ぐちゃぐちゃで、しかも、クリアな世界を作り得た奇才です。僕は渋谷のVAN99ホールで、「ストリッパー物語」を、同時代人として見られたことを、いまでも誇りに思っています。
 僕らより若い世代でも、つかこうへいさんのファンの方はたくさんいらっしゃると思いますが、「ストリッパー物語」という作品は、見たことがないと思います。

 つかさん自身も言っていますが、「ストリッパー物語」は「決して台本を残さない」と決意した作品です。「舞台は、消え去るからこそ美しい」という美学を貫くために、そして、劇作家としての矜持を貫くために、さらに、死に物狂いでウケ狙う芝居屋としての究極のパフォーマンスとして、自らの三本指に入る作品を、永遠に封印したのです。
つかさんのプロとしての誇りは「熱海殺人事件」に、そして、プロの劇作家としては収まりきれないすべての思いは、「ストリッパー物語」に封じ込めてあります。そして、「飛竜伝」は、その両者の統合を試みた作品です。
 高校生だった僕たちは、ある先輩に勧められて別々にそのステージを見に行きました。そして、演劇部の部員として、高校の練習用の舞台で再び顔を合わせた瞬間から、「ストリッパー物語」の再演を始めました。
 僕らは、不思議なことに、たった一度見たそのステージのすべてのストーリを覚え、セリフのひとつひとつを暗記していました。それから四半世紀たったいまでも、僕は主役の「冗談シゲさん」の決めゼリフを暗唱できます。
 十六歳の僕らにとって、つかこうへいさんの作品は、自分という存在に対する無限の自信と底知れない不安を、いかに形にして吐き散らし、乗り越えてゆくかを教えてくれたものなのです。
 それから、二年がたち、僕らは高校を卒業しようとしていました。
 Super Tacは家出して、新聞配達のアルバイトをしていました。僕は彼の三畳一間の下宿に(「神田川」の世界ですよね)遊びに行って、森田童子に出会いました。
 Super Tacは、ラジオで流れた彼女のfirst album「マザー・スカイ」をカセットに録音して、ノイズ交じりの音で聞かせてくれました。僕はいいかげんな感想をいって、冷たい心で彼女の曲を拒否しました。
 そして、Super Tacはハワイに逃げ出し、僕は大学で酒を飲んでは暴言を吐いて、人を傷つけ、孤立していきました。大学を卒業して、サラリーマンになり、それでも、酒を飲んでは暴れまくっていた僕は、ある日、ふと、森田童子の歌を思い出しました。

 その何年かの間に、僕らにとって大切だったひとりの女の子が死にました。

 ある日、ハワイに渡ったSuper Tacから、国際電話がかかりました。「おれは、占い師に言われた。俺たちの三人のうちの誰かが死ぬんだ」
 彼はべロベロに酔っ払っていました。その後、彼に確かめても、憶えていないといいます。もしかしたら、それは僕の妄想だったのかもしれません。

 でも、死んだのは彼女でした。

 僕たちは高校時代の三年間、不思議な三角形を作っていました。そして、三角形はばらばらになり、ひとつの頂点が消えました。僕は初めて、「鎮魂歌」という言葉を理解しました。

 森田童子はライブハウスにつめかける観衆を前にして、ただひたすら、ひとりの死んでいった友達のために歌い続けていました。彼女は八年の歳月をかけて、ただひとりの死者のために、歌い続けました。

 そして、彼の魂が「もう、いいよ」といったときに、黙って去っていきました。高校教師がヒットしたとき、ひとりのルポライターが彼女をたずねました。彼女は普通の主婦になっていました。そして、「もう、語ることは何もありません」といったそうです。
 僕は何年もの間、森田童子のCDを探していました。どこにも、ありませんでした。そして、「高校教師」のヒットで再販されたものを、ようやく手にいれました。
 野島伸司は、そのベスト・アルバムの前書きで、高校生だった頃、初めて彼女のライブに行った日のことを語っています。
 秀才だった友達に誘われて、彼女のライブに行き、その翌日に友人は癲癇の発作で倒れます。どこにも隙が無いように見えた友達の弱さと悲しみを、初めて目の当たりにしました。友人はいつでも真っ赤なマフラーをしていました。「あれで唾を拭くんだ」と笑ったそうです。

 僕は高校生の頃、野島さん同じように学生服を着て、客席の一番後から、輝くスポットライトに照らされた「ストリッパー物語」の舞台に見入っていました。

 そして、いま、おじさんになって、ときどき、森田童子のCDを聞いています。もう、昔のように、裂かれるような痛みも、涙が枯れるほど泣くこともありません。きっと、死んだ人たちが、「もう、いいよ」と、いってくれたからだと、思います。
  まだ、何もわからなくて、だから、必死で生きていたあの頃、つかこうへいは僕らの光でした。そして、森田童子は僕たちの影だったと思います。