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笠井嗣夫
ga2t-ksi@asahi-net.or.jp
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3

 森田童子の幻の鳩が行き着いた場析については、77年のサード・アルバム『ア・ポーイ』の最後でこのように語られている。

 ぼくたちのうちなるやさしさの
 朝明けのアスファルトの上に
 死んだ鳩の首すじの
 やわらかなあたたかさよ
       (「終曲のために第3番「友への手紙」)

 みずからのうちに、〈鳩〉がもはや死んでしまったことをはっきりと見届けながらも、死にゆくものの「やわらかなあたたかさ」をなお生々しく感受しつづけること、ここに『ア・ボーイ』におけるモチーフのひとつがある。

 春はまぼろし
 ふたりは悲しい夢の中
 君といっそこのまま
 だめになってしまおうか
 もどろうか
 もどろうか
 それとももう少し
 このまま君と眠ろうか
       (「蒼き夜は」)

 このアルバムは、メランコリックなトーンでこのように歌い出されており、この曲だけを聴くなら、挫折体験から対幻想へという一時期の学生たちのたどった典型的コースをなぞっているようにもみえる。けれどもほんとうにそうだろうか。各連のおわりが、「そそれとも もう少し/このまま君と眠ろうか」「それともこのまま/君と死んでしまおうか」「それともこのまま/君と落ちてしまおうか」とくり返されるのを耳にするとき、森田童子が単純にみずからの恋愛体験や心中願望のみを歌っているとは、私には受け取りがたい。彼女はいったいどこヘ「もどろう」と逡巡しているのか。
 
明日になれぱ/ぼくたちは/ひとり どうして/生きるだろう/君がいない/この朝は/もっと淋しい/形のない愛は/いつもぼくを/すつぬけて/いつか ひとりで/淋しい風になる
       (「君と淋しい風になる」)

 このニ曲目もまた、恋愛あるいは恋愛の喪失体験を歌っているようにみえる。だが、ファースト・アルバム「グッドバイ』において過去をふりかえったとき、彼女の歌は細部にわたるずっと日常的で実感的なイメージをともなっていたはずであり、このニ曲から受ける抽象的でとりとめのない印象とはかなり異なっている。あえて私は断定してしまうのだが、ここでの「君」とは、あくまでもラディカル(=根源的)なものを求めて生きようとする意志あるいは観念の表象と受け取れないだろうか。そうかんがえたほうが、「蒼き夜は」における、「君といっそこのまま/だめになってしまおうか/もどろうか/もどろうか」以下の歌詞の意味が鮮明になる。
 このアルバムのもつ哀切な情感は、恋愛体験を表層的モチーフとしながら、どうじにラディカリズムという観念との別れあるいは喪失の感情が歌いこまれていることからくる。「明日になれば/ぼくたちは/ひとり どうして/生さるだろう」ということばには、信じようとしたもの(=ラディカリズムとしての観念)と別れて日常へともどっていかざるをえないものの深い喪失感がある。そのとき、「淋しい」かれらに残されているのは、ただ「軽やかに踊る」ことだけだ。70年代検半から80年代前半にかけて活動した森田童子という歌手のもつユニークな位置と、10数年の月日を経た現在において彼女の歌を感受するときのむずかしさの理由とがここにある。
 恋愛の相手である「君」がひとつの観念でもあるということ、いいかえると、ある観念が肉体的な感覚として感受されるという体験がありうること。このことを了解しないかざり、60〜70年代の体験も森田童子の歌も、たんに〈暗い〉という曖昧かつきわめて情緒的なものとしてしか受け止めえない。だが大切なのは、〈暗さ〉の理由なのだ。

  ぶるえているネ

 ぼくの
 てのひらで
 君はぶるえているネ
 ぼくの
 やさしい
 手の中で
 このまま 君は 死ねばいい
 飛べない ぼくの あげは蝶

 以上のことを前提としたうえで,3曲目のこの曲を聴くとき、モチーフは明瞭であろう。ここではすでに「君」とは、恋い人とは関係のない一羽の飛べない「あげは蝶」と変わっている。手のなかの飛べないあげは蝶。生き抜くことのできなかった。ただふるえているだけのみずからの観念。それに向かって、「死ねばいい」とやさしくつぶやくとき、「森田童子」的存在にひとつの結末がおとずれる。青春はおわったのだ。

 海へ行くには
 どう行くのですか
 それから ぼくは
 どう生きるんですか
      (「ぼくを見かけませんでしたか」)

 ある種の観念を身体感覚として感受してしまう性行をもったものにとって。みずからが抱いていた観念の死は、自身の死とほとんどかさなりあう。これ以後の曲で死がより直裁に歌われるようになるのは、いわば必然である。

 夏草の上に
 ねそべって
 いま ぼくは
 死にたいと思う
      (「G線上にひとり」)


4

 けれども、自己のうちなる観念の死を自覚することと、自身の死を望むこととは、順序よくひとを訪れるのだろうか。人間の意識構造は観念と身体との間係においてあまり論理的とはいえない。個の意識にとって可能なかぎり論理的であろうとつとめたとしても、このふたつが時間的な順序を追って自身に継起するとはかぎらない。観念の死を自覚する以前にすでに自己の死は望まれていた、ということだってありえないわけではないのだ。

 淋しい ぼくの部屋に
 静かに 夏が来る
 汗を流して ぼくは
 青い空を 見る
 夏は淋しい 白いランニングシャツ
 安全カミソリがやさしく
 ぼくの手首を走る
 静かにぼくの命は ふきだして
 真夏の淋しい 蒼さの中で
 ぼくはひとり
 やさしく発狂する(「逆光線」)

 たとえばセカンド・アルバム「マザー・スカイ」におさめられたこの曲は、カミソリで手首を切って自死をはかる行為が歌われている。真夏の孤独な部屋のなかでのその光景は、しかし歌として聴くかぎり、「安全カミソリがやさしく/ぼくの手首を走る/静かにぼくの命は/ふきだして・・・」といった部分でさえ、なぜかそれほど凄惨な感じを受けない。むしろいくぶんメランコリックでさえある。メランコリックに、抒情的に、自死のくわだてと発狂とが歌われる。カミソリによる自殺行為の苦痛や悲惨さ、発狂の醜悪さといった具体的な細部をきれいに捨象したままで。この印象から私が感じとるのは、次のようなことだ。つまり、こうした体験を実際に経験したか否かにかかわらず、森田童子にとっては、死も狂気もきわめて観念的な性向を帯ぴたものであり、観念との別れや観念の死が訪れる以前に、彼女の内部には死や狂気がこれまた観念としてあらかじめ育まれていたのだということ。それにしても、ひとはなぜ自分自身の死を望むのだろうか。この世に生をあたえられたものがみずから生の消滅を望むことは、決定的な背理ではないのか。ガリマール版『マラルメ詩集』の序文として書かれた「マラルメ(1842-1898)」におけるサルトルは、この問題について、簡潔ながら根源をおさえた視点を示してくれる。

  有限の存在様態にとっては、世界は不断の出遇い、偶然の不条理な継起のよう なもとのしてあらわれる。もしもこれが真実であるならば、わたしたちの理性の 根拠もわたしたちの心情の根拠と同じくらい狂おしいものであり、わたしたちの 思考の諸原則もわたしたちの行動の諸範疇もぺてんに他ならない。人間とは実現 不可能な一場の夢である。(平井啓之)

 ことさらいうまでもなく、ここでサルトルが前提としているのは、西欧的理性がみずから手を下して殺した神の不在である。もし、「一切を認識する悟性」がいまだありうるとするなら、事態はまったくべつなものとなっていたし、マラルメという詩人の誕生もありえなかったかもしれない。いずれにせよ、神の死あるいは人間の出現によって永遠は時間となり、無限は偶然となった。かくて、私たちの存在が偶然の不条理な継起によるものでしかないとしたら、サルトルがマラルメに寄り添いつついうごとく、「人間とは実現可能な一場の夢」にすぎないだろう。
 サルトルはさらに、マラルメがつねに自殺を考えていたというやや独断的ともいえる断定を持ち出して、この極北の詩人をめぐるサルトルー流の興味深い物語を紡ぎ出すのだが、さしあたってここでは、人間の不可能性という仮説をとりだしておけばそれでいい。私はここで自殺意識にかかわるもうひとつの〈物語〉にふれておこう。
 森田童子の歌声を耳にしながらしばしば私の脳裏に想いうかぶのは、真崎・守の長編劇画『共犯幻想』(原作斎藤次郎)の幾場面かであった。60年代末の闘争の季節に、校舎を封鎖し、時計台を占拠し、最後まで機動隊に徹底抗戦して逮捕されていく4人の高校生とその周辺のひとぴとを描いたこの作品の中心テーマは、この4人が、やがて確実に逮捕され、社会的に困難な状態に追い込まれることは充分に知っていながら、なぜみずからの退路を断ち切り占拠を貫徹しえたかということにある。もちろん作者たちは、あらかじめ4人のヘルメットにそれぞれ異なるマークを描くことによって、セクト的な諸要素すなわち政治路線や組織によって彼らが連帯しているのではないし、その場かぎりの感情につき動かされているのでもないことを示す。
 機動隊の封鎖解除を翌朝にひかえた前夜、4人はそれぞれの過去を語ることによって、行為の根拠をあかそうとする。たとえば、ビアニストをめざす幸夫の指が機動隊のジュラルミンの楯によって切断された経緯を聴いた涼子は、「ちぎれたのは、あたしの指だった。あの時ほんとにあたしの指は、気が遠くなるほど痛んだのよ」と叫ぶのだが、そのとさ幸夫の過去は〈いま)として生成し、個的な体験が痛みをとおして複数の他者と共有されることになる。このように、この作品は4人の高枝生における〈共犯〉の根拠をくまなく探ろうとする。「手錠が4人の手を縛る。8本の手、なぜかその掌はきつく握りしめられている」という逮捕の場面まで。そしてその後もなお。
 けれども、この作品の中の中心となるのは矢吹竜彦の(物語〉である。羽化したキアゲハの翔ぴたつのを見た小学生の竜彦は、とるにたりない卑小な存在にもかかわらず翼をもっているキアゲハの最初の飛翔に荷担することを決意して昆虫採集をやめ、幼虫のうちに、すなわちいちども翔ばないうちに標本にしてしまうようにと教える教育実習生をストックで刺す。これが抗戦前夜の竜彦の語った物語である。だが、やがて少年鑑別所調査官の手によって嘘はあぱかれる。事実は、キアゲハを見たときからこそ竜彦の蝶狂いははじまったのだし、刺した相手は実習生ではなく、おのれ自身なのであった。
 自分たちのひとりひとりが自分という檻に閉じこめられているのだと竜彦はおもう。檻はどこまでいっても檻である。翔ぶべき空はどこにあるのか。翅をもち自由に空を翔ぶことのできる蝶をそのとき奄彦は嫉妬するだろう。森田童子は「伝書鳩」という曲で、視えない仲間たちに想いを伝えるために飛ぴ立っていった行方不明の鳩への変身を幻想した。一方で、竜彦は蝶たちを殺し、自己をも否定しようとする。彼が時計台に立て篭もったのは、塔の上から向こう岸へと跳ぶためである。橋のもつ水平さは向こう岸への最短距離を越えるだけの意味しかないが、塔は向こう岸がないという恐怖をモチーフとして天空に向かう。存在しない向こう岸へと跳ぶとき、〈跳ぶ〉は〈翔ぶ〉になる。これが竜彦のあやうい論理であった。

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